十条村役場3.江戸時代の町内会(ズシ入門)JUJO GINZA READINGS

公開日:2004-10-17十条村役場3.江戸時代の町内会(ズシ入門)

本日も、十条村へおいでいただき誠にありがとうございます。前回まで、十条村が上十条村と下十条村に分かれていた、というお話をしてまいりました。今日は、村の中の小さなグループ(町内会)についてお話してみることにいたしましょう。


原町踏切→(「赤羽線」の表示もそのまま…)

原町踏切→(「赤羽線」の表示もそのまま…)

◎ この踏切に見覚えのある方もきっと多いことでしょう。そうです。十条駅の大踏切よりも一つ池袋寄りにある、「スワンベーカリー」さんの前の踏切でございます。名前は「原町踏切」。でも、「原町」ってどこの町? と思われた方もいらっしゃるでしょう。十条とは別の町なのでしょうか? それとも古い名称? ……
実は、かつて十条という町の中には、小さな「町」がいくつもあったのでございます。そして「原町」もそうした「町」のひとつなのでした。現在の上十条1丁目西町会と上十条2丁目の南側あたりが、だいたい「原町」の範囲でございました。

古いお宅には、今も原町当時のプレートが…。

古いお宅には、今も原町当時のプレートが…。

◎ こうした小さな「町」は、現在の町内会のようなもの。町会の前身と考えていただければ良いでしょう。他にも七軒町会とか本宿町会、根岸町会などがありました。いま町名になっている「仲原」というのも、戦前は町内会の名称でしたし、もっと昔はアザ(字)の名前でもありました。…
小さな「町」を名乗る町内会が十条に出来たのは、明治の末頃から昭和初期にかけてのこと。ただし、町内会が結成されるずっと前から、村には20軒ほどの集落ごとに“ご近所組合"のような地域コミュニティがしっかりと組織されていました。この“ご近所組合"のことを、村人たちは「ズシ」と呼んでいます。十条の場合、町内会の大半はこれらの「ズシ」が発展して出来たのでございます。

昭和8年の原町会名簿(上十条2丁目醍醐家所蔵)

昭和8年の原町会名簿(上十条2丁目醍醐家所蔵)

◎ ズシとは、厨子、辻子など色々な漢字を当てますが、本来は「横丁」という意味だそうで、転じて集落のことを「ズシ」と呼ぶようになったということです。かつて下十条村には5つから7つのズシがあったといいます。いまの中十条1丁目には「宿」そして「南」というズシがありました。中十条2丁目あたりには「仲才」(ナカッツェと読みます。後の仲町会)、岸町2丁目には「下」(シタ。後の根岸町会)、上十条1丁目には、東側に「七軒町」、西側に「原」ズシがありました。この他、王子本町3丁目周辺に「谷津」ズシがあったので、全部で7つ。
一方、上十条村のズシは4つ。中十条3・4丁目を中心に「宿新田」(後の本宿町会)があり、十条仲原2丁目周辺に「横丁三塚」(後の仲原町会)、上十条4丁目あたりに「北口新堀」(後の西町会)、そして上十条2丁目の北側と十条仲原1丁目の南側に「前新田」(後の大塚町会)がありました。

ズシの地図はこちらから

◎ 考えてみますと、いま申し上げたズシのある場所以外には、かつて人が住んでいなかったということになる訳です。そこは一面の田んぼや畑だったことでございましょう。つまりそれが農村だった十条村の風景なのでございます。


町内会は江戸時代からあったのでございます。
ただしそれは「ズシ」と呼ばれ、町内会よりも、もっと密接な連帯組織だったのです。
そして、ズシの伝統は現在の町会にも受け継がれているのでございますよ。
さて、次回はどんなお話をいたしましょうか。
どうぞまたお気軽にお越しくださいませ。


十條村役場 観光課スタッフ
榎本 龍治

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