公開日:2008-06-24十条銀座博物館 第3期展 阿波踊り大会の記録から
十条銀座の商店街事務所には、戦前からの長い歴史を物語る商店街の古い記録が多数保存されています。役所に提出した文書はもちろん、ポスターやチラシ、記念品、粗品のサンプルなどなど、今となっては大変貴重で懐かしいお宝が、倉庫の片隅にひっそりと眠っています。このコーナーでは、そうした資料を少しずつご紹介しながら、商店街が歩んで来た道をちょっと振り返ってみたいと思います。
今回は、昭和40年代に毎年、十条で開催されていた阿波踊り大会の記録についてご紹介したいと思います。阿波踊り大会は10年間にわたって実施されていましたから、記録もたくさん残されております。今回はその中で、第2回大会の準備過程を中心にご覧いただきましょう。尚、以前「ヴィンテージ写真館」のコーナーでも、阿波踊りについて取上げていますので、そちらもあわせてご覧下さい。↓
ヴィンテージ写真館・阿波踊りの回はこちら
◆ 十条の阿波踊り大会は昭和42年に第1回目が開催されたのですが、その時の記録はほとんど残されていません。42年7月13日付けの通知文書には、「7月15日には阿波踊りの行進をいたします。」とあり、理事は全員、当日の午後3時に集合してください、との通知ですから、夕方にパレードのような形で実施されたのでしょう。阿波踊りの本場・徳島から一団を招いて踊ってもらったようです。
◆ 東京で阿波踊りといえば高円寺が有名ですが、高円寺の阿波踊りは昭和32年に始まり2006年には50回大会を数えています。これに続き、下北沢が昭和41年スタート。三鷹でも昭和43年から阿波踊り大会を始めています。
そうした中、十条銀座では42年の阿波踊りパレードで手ごたえを得たようで、翌年春から阿波踊りの恒例行事化に向けた協議が進められていきました。当時の事業部長は、長岡俊己(釜屋金物店)で、他に笹田和夫(ササダ工芸社、現在ブティック・ササ)、小内修(伊勢福寝具店)、磯崎明(平和堂玩具店)らが事業部の主要メンバーでした。
◆ 昭和43年5月1日付にて組合員に配付された「事業部報」で、長岡部長は「阿波踊りを名物にしよう」と訴えています。「どうしたら当商店街に客の足を向けられるだろうか」「売上げ額の大きなノビは望めなくなって来ました。」と厳しい現状を見つめ、赤羽の馬鹿祭りなど、直接売上げに結びつかない遊びのような行事が重要視されているのだと分析。
「商店街の人気が下り坂になってからバンカイ策は大変な仕事です」と焦りをにじませ「今です。今の奮起が大切です。」と大書して組合員の奮起を促しています。
◆ こうして昭和43年の中元福引大売出し期間中、阿波踊り大会を大々的に開催することが提案され、5月28日の組合総会においても、この計画案が承認されました。
同じ頃、近隣の関係団体などに参加を呼びかけるビラも配付され、準備が着々と進められていきます。開催日は7月10日と決まり、参加者に景品が当る抽選会など
色々な趣向が練られていきました。しかし、まだ大きな課題が残っていたのです。
◆ それは、資金の問題でした。
実は阿波踊りの予算を全く計上していない中で、計画が先行して進んでいたのです。
そこで、6月7日付にて組合員あて通知文を出して、協賛金を負担してほしいと全店に呼びかけました。
ここでも金子鍵蔵理事長は、「全然名物のない十条銀座の恒例祭りにしたいと意気込んで居ります。」
「赤羽商店街では数年来莫大な経費をかけて馬鹿祭りの事業を続けて居りますが、当商店街では成る可く少い予算で大きな効果をと討議致しましたが、やる以上、中途ハンパな事も出来ません」
と訴え、全店に寄付をお願いしています。
◆ 役員らの情熱的な訴えが伝わったのか、組合員からの寄付金は予想以上の金額が集まりました。総額774,575円の寄付金に金融機関からの協賛金などが加わり、なんとか資金問題にも目途がついたようです。
◆ ・・・ですが、今回はここまで。当日の様子はまた次回ご紹介することにいたします。
どうぞお楽しみに。
以上、今回は昭和43年7月に実施された十条銀座の「第2回・阿波踊り大会」について、特にその準備過程にまつわる資料を中心にご紹介いたしました。
次回は、大会当日の様子や実施後の反響などについて見て行きたいと思います。
また、当時の思い出や裏話などお持ちの方がいらっしゃいましたら、商店街事務所までお寄せいただければ幸いです。どうぞ次回もお楽しみに。