十条銀座博物館 第6期展・長崎屋がやってくるJUJO GINZA READINGS

公開日:2009-03-25十条銀座博物館 第6期展・長崎屋がやってくる

十条銀座の商店街事務所には、戦前からの長い歴史を物語る商店街の古い記録が多数保存されています。役所に提出した文書はもちろん、ポスターやチラシ、記念品、粗品のサンプルなどなど、今となっては大変貴重で懐かしいお宝が、倉庫の片隅にひっそりと眠っています。このコーナーでは、そうした資料を少しずつご紹介しながら、商店街が歩んで来た道をちょっと振り返ってみたいと思います。

 今回は、昭和49年8月30日に開店したスーパー「長崎屋」十条店をめぐる出店反対運動について振り返ってみたいと思います。ご存知のようにスーパー長崎屋十条店は平成6年に閉店し、その跡地は現在マンションになっています。
20年という長いようで短い期間でしたが、長崎屋は十条地区商店街と共存共栄を図り、互いに切磋琢磨して
小売店全盛期を走り抜けていきました。
 十条銀座には、「長崎屋問題対策委員会」関係書類をつづったファイル3冊が残されており、貴重な資料となっております。今回はこのファイルから幾つか資料をご紹介しつつ当時の「出店反対運動」について見ていくことにいたします。


長崎屋十条店開店当時の新聞折込チラシ(部分)

長崎屋十条店開店当時の新聞折込チラシ(部分)

◆ 説明するまでもなく、スーパー長崎屋は、衣料品を中心とした全国チェーンストアでした。
しかし2000年に経営破たんし、会社更生法適用を申請。その後再建され、現在はドンキ・ホーテのグループとなって全国に店舗を展開中です。
 長崎屋十条店は、昭和49年8月30日、76店目の店として開店しましたが、その出店には地元の猛反対による様々な困難が待ち受けていました。

◆ そもそもこの場所(十条仲原1-21)には、中央ゴムという会社の工場がありましたが、火災により閉鎖され、昭和46年にその跡地を長崎屋が買収して、ボウリング場を建設する計画だったそうです。しかし昭和47年1月、長崎屋がボウリング場の建築確認を申請すると地元住民の間で反対の声が高まり「長崎屋十条ボウル建設に反対し緑の公園をつくるための協議会」が結成されました。こうした住民の反対運動を受けて、長崎屋は方針を転換。
同年8月にボウリング場建設の中止を表明し、その代わりとしてスーパー建設を住民に提案したのでした。

◆ それまで事態を静観していた地元商店街は、この計画を聞いて俄かに危機感を募らせ、8月31日、十条銀座商店街、十条富士見銀座商店街、十条中央商店街の幹部が会合を開きます。
この席で3商店街による「長崎屋問題対策委員会」の立ち上げが決議され、出店反対運動がここにスタートしました。

「長崎屋進出絶対反対」のポスター 掲示風景(十条銀座3区付近)

「長崎屋進出絶対反対」のポスター
掲示風景(十条銀座3区付近)

「長崎屋進出絶対反対」のポスター 掲示風景(十条銀座2区付近)

「長崎屋進出絶対反対」のポスター
掲示風景(十条銀座2区付近)


◆ 長崎屋問題対策委員会が立ち上がると、早速「長崎屋進出絶対反対」と書いたポスターを900枚印刷し、商店街内に掲示。加盟店に対しても断固反対する旨、通知されます。
また、十条高台地区商店街連合として北区の商店街連合会に対し出店反対の署名運動を要請。ひと月も経たずに2万人分の署名が集まりました。

◆ 昭和47年11月4日、3商店街連名で官公庁へ陳情書を提出。当時の通商産業大臣、中小企業庁長官、商工会議所会頭、東京都知事、東京都議会議長にそれぞれ提出するという念の入れよう。更に11月17日と19日には相次いで総決起集会を開催。一致団結して戦おう!と3つの商店街傘下に連なる加盟店へ結集を呼びかけます。
 また地元住民の団体なども協調して反対運動を展開し、商店街をバックアップしました。

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総決起集会のスナップ(緊迫した様子が伝わって来ますね)

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周辺住民に配布した反対チラシ

周辺住民に配布した反対チラシ

◆ 長崎屋進出反対運動はますます盛り上がり、12月には建設予定地に隣接する場所へ仮設の監視小屋を設置。無断で長崎屋が建設に着手しないよう見張りまで立てたそうです。
 また12月7日、小林正千代北区長宛てに請願書を提出し、長崎屋出店予定地を北区で買い上げて公民館や公園を作るよう要求しています。この時、用地買収の費用として、商店街有志から2千万円を北区に寄付するとまで伝え、区長の政治的決断を迫りました。

予定地を視察する区会議員ら

予定地を視察する区会議員ら

視察の様子(現地より四間道路を臨む)

視察の様子(現地より四間道路を臨む)

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900坪余りの長崎屋出店予定地
ここに十条銀座全店の売場面積より広いショッピングセンターを建てる計画だった・・・

◆ 区長の仲介による長崎屋と商店街の折衝は、昭和47年12月から翌年3月まで続き、ついに4月13日、区長の斡旋案が商店街側へ提示されました。その内容は、
 長崎屋予定地912坪のうち、
 (1)250坪を区立幼稚園用地として、坪単価40万円で北区が買上げる。
 (2)100坪を児童公園用地として長崎屋が北区に無償で提供する。
 (3)残りは長崎屋が店舗を建設するが、営業条件について地元商店街と協議する。
という内容のものでした。
 商店街側としては、区長の仲介であることや、長崎屋側が大幅に譲歩していることもあり、この提案を受入れることになりました。

 昭和48年4月22日『北区新聞』

昭和48年4月22日『北区新聞』

「長崎屋反対闘争に終止符/幼稚園、遊び場建設」と報じる。

『十條高台地区商店街ニュース』昭和48年6月15日発行

『十條高台地区商店街ニュース』昭和48年6月15日発行

わざわざ新聞まで作って、長崎屋問題解決を関係者に通知した。


◆ こうして長崎屋出店反対運動は終結し、翌昭和49年夏にオープンするのですが、開店前後の詳しい様子は、また次回、改めてご紹介することにいたします。


以上、今回は「長崎屋」十条店の出店反対運動について見てまいりました。
北区では、同じ時期に王子6丁目ボウリング場建設反対運動が起きており、東北新幹線通過反対運動や王子キャンプ跡地返還問題などで住民パワーが爆発していた時代でした。本格的なスーパー進出反対運動としては、長崎屋十条店のケースが北区では先駆的なものとなり、後に忠実屋の赤羽進出やマルエツ進出問題など、昭和50年代のスーパー進出反対運動がこのあとで次々と展開されていくことになります。
また次回をお楽しみに。

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