公開日:2009-04-28十条銀座博物館 第7期展・長崎屋と十条の商店街
十条銀座の商店街事務所には、戦前からの長い歴史を物語る商店街の古い記録が多数保存されています。役所に提出した文書はもちろん、ポスターやチラシ、記念品、粗品のサンプルなどなど、今となっては大変貴重で懐かしいお宝が、倉庫の片隅にひっそりと眠っています。このコーナーでは、そうした資料を少しずつご紹介しながら、商店街が歩んで来た道をちょっと振り返ってみたいと思います。
今回も「長崎屋十条店」の出店問題に関する資料をご紹介してみたいと思います。出店に際しては地元商店街と様々な協定を結び、共存共栄を図っていくことになるのですが…。
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前回ご紹介した通り、長崎屋十条店は、昭和47年8月に出店計画が発表されましたが、十条銀座をはじめとする地元商店街の猛反対運動を受け、計画は難航。昭和47年12月には区長の斡旋による話合いが始まり、翌年4月に至ってようやく和解案が受入れられ、反対運動は終結したのでした。
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反対運動の終結を大々的に伝える。
◆ 長崎屋と十条地区商店街連合会との和解により、両者は昭和49年5月、下記のような覚書を
取り交わして長崎屋の営業内容を細かく取り決めました。
長崎屋十条店の休業日数や営業時間、販売品目、販売価格などについて協定を結ぶ内容。
食料品は扱わないという条項もあった。
(昭和49年6月13日付)
長崎屋十条店オープンに先立ち、協定を結び和解したことを報告している。
長崎屋十条店はオープンに向けて着々と準備を続け、いよいよ昭和49年8月30日開店の日を迎えます。
◆ こうして計画発表からちょうど2年後に「長崎屋十条店」はオープンを果たしたのでした。
これを受けて先の協定覚書に従い、地元4商店街(十条高台地区商店街連合会)に長崎屋を加えた新たな商店街協議会が発足することになります。それが「十条地区商店街振興協議会」(通称・高台
協議会)です。
(昭和49年10月30日規定)
各商店街と長崎屋から会費を集め、委員を決めて協議し、共同事業を行うことが定められた。
十条高台地区の商圏発展に向けて「共存共栄」の第一歩が踏み出された。
◆ 高台協議会では、共同事業として昭和51年の歳末セールから共同折込チラシを作っています。
この事業は平成6年8月に長崎屋十条店が閉店するまで続けられました。
一方、長崎屋は当初、食料品を扱わないという協定を結びましたが、昭和51年11月には生鮮品を除く食品について取扱わせてほしいと地元商店街に申し入れています。更に昭和53年4月になると、生鮮食品も販売したいと申し入れ、地元の反対を押し切って食料品全般を取扱うことになります。
◆ しかし、食料品にまで品目を拡大したことは、結果として長崎屋にはプラスに働きませんでした。
当初は繁盛していた十条店ですが、やがて営業不振に陥り、当時の歴代店長は頭を悩ませてかなり苦労していたようです。
結局、20周年の節目に当る平成6年8月、長崎屋は十条から撤退することになりました。
最後の共同チラシ。右端・長崎屋の欄に「閉店売り尽くし」の赤文字が踊る。
20年という長いような短いような期間でしたが、長崎屋は十条の人々に「長崎屋があった頃」として、時代の代名詞のように記憶の中に残り続けています。
ちょうど平成6年、長崎屋が閉店した頃、十条銀座では「Jスタンプ」がスタート。
バブル崩壊後の激しい時代の波が、十条にも押し寄せていました。
ちなみに「十条地区商店街振興協議会」は、長崎屋を除く4商店街によって今でも運営が続けられております。