公開日:2006-10-25十条村役場16.東京家政大学~姥が橋(北・板橋区界)を歩く
十条村のハシからハシまで④旧十条村・下板橋宿境
本日も、十条村へお越しいただき誠にありがとうございます。
今回ご案内するのは、十条村と下板橋宿の村境周辺です。ここには江戸時代、加賀前田藩の広大な下屋敷が広がっていました。明治以降は、陸軍の工場などに利用されていたところでございます。板橋宿(下板橋宿)は江戸四宿のひとつ。千住宿・品川宿・内藤新宿と共に江戸の玄関口となる中山道の宿場として賑わっていました。
◆ 今回の出発地点は、前回の終点「王子新道踏切」を越えて北側(十条駅方向)へ曲がる坂道を登った先、「シルバーピア加賀」前の三叉路からスタートいたします。下に示した村境地図をご覧いただくとお分かりのように、十条村と下板橋宿の境目は、現在の北区・板橋区界と同じだったと考えられます。ご承知のとおり区界の大半は、現在学校施設の敷地内を通っており、その上を歩くのは困難な状況です。・・・
◆ 区界(村境)の上が歩けないので、今回はなるべく一般の人が立ち入れる場所を通りつつ村境近くまで侵入を試みたいと存じます。
「シルバーピア加賀」前の三叉路。今日はここからスタートです。
近くには十条台橋(区立中央公園正門前の道と埼京線が立体交差する橋)や、東京家政大学(高校・中学・幼稚園)の敷地があります。
三叉路のすぐ先は、もう東京家政大学。
村境は、あの看板の脇あたりから学校の敷地内へと続いている模様です・・・。
一般の人は入れないので、この交差点を左へバス通りを進むことにいたしましょう。
◆ バス通りの左手には愛誠病院の塀が続きます。この辺りは、そのむかし「太郎兵衛山」という小高い丘だったそうでございます。今でもここは周りより少し高くなっているようですね。バス通りをしばらく進むと、右手に板橋給水所があります。給水所の裏側は板橋区立テニスコート(区立加賀1丁目庭球場)になっています。江戸時代は、この近辺に加賀屋敷の裏口門があったそうでございます。きっと十条村の村人はこの門を通って、加賀屋敷に出入りしたことでしょう。
◆ 板橋区立加賀1丁目庭球場 ◆
このテニスコートの先あたりに、加賀藩の下屋敷「十条口御門」があったらしい。写真正面は東京家政大学10号館。
◆ 加賀藩の下屋敷はとにかく大変広大な敷地だったらしく、最大22万坪近くもあったそうでございます。その範囲は現在の加賀1丁目・2丁目・十条台2丁目・板橋4丁目にまたがっており、屋敷の中には広い畑が続き、金子山や太郎兵衛山などの小山もあって、今の板橋5中周辺は大池と呼ばれる池だったと申します。
加賀2丁目の交差点でバス通りを右に曲がります。この辺りは工場地帯ですが、最近は新しいマンションも目だってまいりましたね。しばらく行くと左前方に北区立富士見中学の体育館が見えてまいります。富士見中学体育館の裏山は、加賀屋敷時代の面影を残す貴重な景観のひとつでございます。中学手前のマンション近辺には、むかし加賀屋敷の「北御番所」があったといいます。その近くには「おぐら山」と呼ばれる小山もあったとか。・・・
◆ この富士見中学は、学校の敷地中央を北区と板橋区の区界線が横断していますが、下十条村と上十条村そして下板橋宿の3宿村が交わる村境でもあったのでございます。
学校の統廃合によって、富士見中学も将来十条中学へ統合されることになりますが、この場所はどのような施設として利用されるのでございましょうか。
◆ 村境は、富士見中学を抜けて、隣の板橋区立加賀中学をかすめるように通過し、学校の正門前の道に出ます。ここからは、この道が村境です。
◆ 道幅も、マルフクストアと帝京病院を結ぶ通りを越えると、ぐっと狭くなってまいります。自転車がやっと通れるほどの路地です。
◆ 細い路地を進むと、姥が橋の手前で広い並木道と合流します。この広い道は、姥が橋から先ほどの富士見中学裏山の交差点まで続いているのですが、戦前はこの道を軍用のトロッコ列車が通っていたそうでございます。それでこの道だけは、昔から広い道なのでございます。
◆ 十条村と下板橋宿の村境は、姥が橋の手前が終点です。今は暗渠になっている稲付川(北耕地川・根村用水とも)が境界線になっていたようです。
十条村と板橋宿の境界線、いかがでしたでしょうか。
次回もまた、村境の続きを歩いてみることにいたしましょう。
またのお越しをお待ちいたしております。
参考文献:奥山正『加賀藩江戸下屋敷』(1987年12月)