十条村役場17.旧稲付川(根村用水)跡を歩く・前編JUJO GINZA READINGS

公開日:2006-11-28十条村役場17.旧稲付川(根村用水)跡を歩く・前編

十條村役場

十条村のハシからハシまで⑤旧上十条・稲付村境

本日も、十条村へお越しいただき誠にありがとうございます。
前回に続いて、今日は上十条村と稲付村との村境をご案内いたします。この両村の境目には、通称「稲付川」と呼ばれる農業用水が流れていました。

稲付川は、またの名を「根村用水」或いは「上郷用水」ともいいます。下板橋宿にある根村堰で石神井川から分水し、板橋上宿~稲荷台を通り、十条の姥が橋を経て、上十条・稲付村境を抜け、下村(北区志茂)の荒川(現・隅田川)へ注いでおりました。明治期まで、この用水は周囲7か村の田畑を潤す重要な農業用水だったのでございます。


◆ 村境をご案内する前に「稲付村」についてお話しておきましょう。
稲付村のエリアは、ほぼ現在の赤羽西、西が丘、赤羽南1・2丁目辺りに相当します。戦後も稲付町1~5丁目、稲付西町1~5丁目、稲付梅木町などの町名が残っていましたが昭和39年から46年にかけて、順次現在の「赤羽西」「西が丘」などの町名に変更されていったということです。

◆ 岩槻街道沿いの普門院さん前にある「道灌山稲荷」では、毎年初午の日に餅つきが行われ、「稲付の餅練り唄・餅搗き唄」が披露されるので有名ですね。この餅搗唄は北区指定無形民俗文化財になっています。「イナツケ」と読む人もいますが、地元のお年寄りは「イネツケ」と言うようです。

 

村境地図

◆ 村境地図 ◆


◆ さて、今回の出発地点は、前回の終着点・姥が橋です。
姥が橋とは、かつて稲付川に架かっていた橋の名前で、この橋には誤って稲付川に子供を落としてしまった姥(ウバ)が、この川に身投げしたという悲しい昔話が伝わっています。橋のたもとにはお地蔵さんが立っており、毎年8月24日に縁日が催されます。お地蔵さんは享保九年(1724)の造立だそうです。

 

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◆ 「稲付の小径」案内板 ◆

姥が橋から稲付川を辿る道は散歩道となっており、コース入り口には案内板が立てられています。コース途中の歩道にはプレートがありますので探してみてください。

旧稲付川へ降りる階段

◆ 旧稲付川へ降りる階段 ◆

稲付の小径のプレート

◆ 稲付の小径のプレート ◆

◆ それでは案内板に従って、暗渠になった旧稲付川の路地を歩いていきましょう。この道がつまり旧上十条村と稲付村との村境になるわけでございます。明治の頃は、姥が橋のすぐそばに水車があったそうです。石橋、お地蔵さん、水車・・・のどかな風景だったことでしょうね。ちなみに稲付川は昭和42年着工の工事により暗渠となったそうです。

◆ 何しろ昔は川だった道ですから、まるで谷底を歩いているみたいです。道の両側は、階段や石段ばかり。しばらく歩くと、左手に三ツ和公園、西が丘保育園などがあります。

 

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梅の木小学校裏門

◆ 梅の木小学校裏門 ◆

◆ 西が丘保育園の先に、梅の木小学校の裏門が見えてまいります。

戦前は、この辺り一帯に陸軍の射撃場(稲付射場)があったそうでございます。

射撃場跡の塀?

◆ 射撃場跡の塀? ◆

◆ たぶんこの塀も、陸軍射撃場時代の名残なのではないかと思われます。・・・

hiroimiti◆ 梅の木小学校の先で、道は大きく右へカーブします。そしてカーブの先は、道が広くなっていました。
 おそらく川巾も広くなっていたのでしょう。向って右側が上十条村、左側が稲付村です。

村境地図・拡大

◆ 村境地図・拡大 ◆

◆ 広い道を進むと、その先はまた細い路地。この辺りで、昔は流路が二つに分かれていたようです。しばらく歩くと左側に「水車の坂」と呼ばれる急な坂があります。

 

水車の坂 登り口

◆ 水車の坂 登り口 ◆

◆ こんな坂の斜面に水車があったのかしらと思ってしまいますが、記録によると、かつてこの場所(稲付村字寺ノ上1000番地)に「六右衛門」さんの水車があったのだそうでございます。姥が橋の近くにあった水車より大きなものだったとか・・・。

水車の坂 上から

◆ 水車の坂 上から ◆

坂の上からの眺めは気持ち良いですね。谷底のような坂の下には小川が流れ、向いには十条の台地が広がって見える、それはまさに十条村と稲付村とを隔てる「村境」の風景だったことでございましょう。

「水車の坂」については北区文化財のページもご参照ください。↓
http://www.city.kita.tokyo.jp/misc/history/history/da124.htm


◆ 稲付川の路地へ戻り、水車の坂とは反対の右へ曲がると、「游鯉園の坂」へ出ます。「游鯉園」とは、この先にあった魚料理の料亭の名前で、戦前は政府高官や財界の要人たちが集う社交場として利用され、有名だったそうでございます。

 

水車の坂に比べるとゆるやかな坂 ですが、だらだらと長く続くので、 上ると案外疲れました。・・・

水車の坂に比べるとゆるやかな坂ですが、だらだらと長く続くので、上ると案外疲れました。…

游鯉園の坂

◆ 游鯉園の坂 ◆

「游鯉園の坂」も北区文化財のページがあります。↓
http://www.city.kita.tokyo.jp/misc/history/history/da131.htm

◆ 游鯉園の坂から戻って、稲付川の路地を少し先に進むと、右手に広がる住宅地が、かつての料亭「游鯉園」跡地です。いまも個人宅の庭などに、当時の面影がわずかにうかがわれます。

 

奥の方に游鯉園の名残が・・・

◆ 奥の方に游鯉園の名残が・・・ ◆

◆ 今はアパートになっている建物の奥の方、崖を背にして森のように木が生い茂っているあたりが、恐らくかつての「游鯉園」の庭だったところ(の一部)ではないかと思われます。・・・・


今回は姥が橋から游鯉園跡地までをご案内いたしました。
上十条村と稲付村の村境はまだまだ続きます。
旧稲付川の路地をたどって、次回もこの続きを歩いてみることにいたしましょう。
またのお越しをお待ちいたしております。

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