公開日:2007-03-21十条村役場18.旧稲付川(根村用水)跡を歩く・後編
十条村のハシからハシまで⑥旧上十条・稲付村境
毎度、十条村へお越しいただき誠にありがとうございます。
本日は前回に続き、上十条村と稲付村の間を流れていた稲付川跡を歩きます。前回は、姥が橋から暗きょの路地を歩き、梅の木小学校や水車の坂、游鯉園の坂などを見て行きました。今回は游鯉園跡から出発いたします。
◆ 前回お話した「游鯉園」は、戦前に上流階級の方々が集う社交場として有名だったそうですが、これからご案内する「射撃場」も、そういった社交場のひとつだったようでございます。郊外に足を延ばして、クレー射撃を楽しむというのが、昔の偉い方々にはステータスたっだのでございますね。
◆ 十条射撃場跡付近 ◆
古い地図によりますと、この駐車場右手先あたりに十条射撃場の入り口があり、この奥へ続く斜面を利用して射撃場を営んでいたようです。
射撃場があった斜面の台地上は、すぐ近くに同潤会住宅が密集しており当時は鉄砲の音がよく聞こえたことでございましょう。
◆ 稲付川跡の路地をしばらく先へ進むと、分れ道に差しかかります。右手には清水坂公園の入口や清水小学校が見えますが、村境の川は左の道筋へと流れておりました。私たちは左へ進んでまいりましょう。
◆ 岩槻街道の交差点近くには、法真寺の題目塔があります。
塔の脇の坂道を登って行くと右手に、香取神社や法真寺があります。香取神社は旧稲付村の鎮守神でした。
◆ 旧稲付川の跡は、岩槻街道を渡って、更に先へ続いています。街道を渡るとすぐに埼京線と京浜東北線が合流するガード下を潜りますが、道はここでまた2つに分かれています。稲付川はほぼ右側の細い道を辿っていたものと思われます。
◆ このガードをくぐると印刷工場に突き当たって、村境の道は行き止まりです。かつての川は、おそらく工場の中を通りその先へ抜けていたのでございましょう。
◆ 工場を抜けると、王子保健所前から赤羽駅東口へ抜ける大通りに出ますが、その手前に旧稲付川の跡を示す案内板があります。
◆ 「西中橋は昭和33年12月北耕地川に架けられた橋です。平成3年3月に埋立が完了し、橋としての役割を終えて撤去されました。ここに西中橋を偲んで碑を建立いたします。」と、碑文にあります「北耕地川」とは稲付川(根村用水)の別名で、この辺りからは稲付川よりもむしろ北耕地川という名称で親しまれていたようです。ちなみに「北耕地」というのは神谷村の古いアザ名(現在の北運動公園の辺り)でございました。
◆ 旧稲付川は、北耕地川と名前を変えて、更に先へと流れておりました。広いバス通りを越えると、成立学園幼稚園や稲田小学校があります。川は本来、幼稚園と小学校の間あたりを通っていたようですが、道幅を拡張してから幼稚園の南側へ迂回させていたようでございます。
◆ 川はここで神谷村の村境に突き当たります。上十条村と稲付村の村境はここで終わりです。
この先、北耕地川は神谷中学校の辺りを回って蛇行しながら北本通りを越えて隅田川へと注いでおりました。今でも隅田川の手前、工場敷地内では川の流れが見られるそうでございます。
以上、上十条村と稲付村の村境を辿って、旧稲付川跡をご案内いたしました。
東十条や神谷方面は比較的暗きょになるのが遅かったので、川として流れていた
当時のことをご記憶の方も多いのではないでしょうか。
十条村を一周する村境の旅もいよいよ終わりに近づいてまいりました。
次回は十条村と神谷村の村境を歩くことにいたします。
どうぞお楽しみに。