公開日:2010-04-27十条村役場20.番外編 おふじさんが危ない
毎度、十条村へお越しいただき誠にありがとうございます。
本日は番外編として、十條村のシンボル「お冨士さん」がピンチというお話をいたします。
十条で「おふじさん」を知らない人は、たぶんいないでしょう。
でも、その「おふじさん」が削られてしまうかもしれない計画が、いま検討されていることを、どれだけの人が知っているでしょうか。
毎年6月30日と7月1日になると、どこにも告知が出ないのに、大勢の参拝客が訪れる十条冨士神社のお祭り。約350メートルの「お冨士さん通り」にびっしりと並ぶ2百数十軒の夜店は、大人になっても見るだけで楽しくなってしまいます。もちろん本来は、富士山の山開きに合わせて十条冨士神社で行われる祭礼がメインイベント。縁日は「おまけ」であって、本当の主役は神社の冨士塚(ミニ富士山)なのですが・・・。
お祭り以外の日は、ひっそりとして、訪れる人もほとんど無い神社ですが、なんといっても「おふじさん」は、十条のシンボルに違いありません。
十条冨士塚は、江戸時代の終わり頃、文化~天保年間(今から160~200年くらい前)に築造されたと言われていますが、古墳を転用したものとも言われており、神社あるいは塚としての信仰は、もっと古くからのものと考えられます。
冨士神社の祭礼は、いまでも「冨士講」という「講」(集団)の人たちが行っています。十条には、江戸時代から続く「丸参伊藤元講」という冨士講があって、冨士登山や信仰活動を行っています。冨士講は、江戸時代の中ごろに食行身禄(じきぎょうみろく)という人が現れ、それまであった冨士信仰を更に発展させて、とても大きな信仰集団勢力となりました。そこから数多くの講が分派して、俗に「江戸八百八講」と言われるほど枝分かれしたグループが関東近郊に広がりました。「丸参冨士講」は、そうした冨士講の中でも、主要なものの一つです。また幕末のある時期、丸参講の代表者は食行身禄が名乗った「伊藤伊兵衛」という名前を受継ぎ、江戸冨士講グループのリーダー的な役割を担っていたとも考えられます。十条冨士神社にある冨士塚は、そうした由緒ある冨士講によって築造されたもので、
比較的古くからの姿を留めているという点でも、大変貴重な文化遺産です。
このようにとても貴重なものであることから、北区教育委員会では平成3年に十条冨士塚を有形民俗文化財に指定し、末永く未来に伝えるため保護しているものであります。
ところで・・・十条冨士塚の前を通る旧岩槻街道(都道・補助83号線)は、以前から道幅を広げる計画があり、いよいよ本格的に測量や用地買収が進められることになりました。道幅は、現在の7メートルから20メートルに拡幅されるそうです。これに伴い、おふじさんは半分以上が用地にかかってしまうことになり、最悪の場合は山を壊すことになるかもしれません。
地元では、数年前からこの問題について話合いを続けていますが、なかなか良い方法が見つかりません。ことは、おふじさんだけの問題ではありませんし、住民の大移動であるとか、環状7号線との交差問題など、さまざまな問題を抱えています。住民のみなさんも「おふじさん」どころではない、という方が少なくないようです。
町のシンボルである「おふじさん」が削られて姿を変えたり、別の場所に移動するというのは、とても残念なことです。しかし、「おふじさん」があるために拡幅できない、というのも困ります。どうしたら良いのでしょうか。
今回は、いま深刻な問題となっている十条冨士塚(おふじさん)の問題を取上げました。道路の拡幅事業には、反対派の人、推進派の人、さまざまな立場の方がいらっしゃいます。
しかしこのサイトは、そのどちらを擁護するものでもありません。ただ切に望むのは「知らないうちに、おふじさんがなくなっていた」ということにはならないでほしいということだけです。それには、多くの方にこのことを知っていただき、みなさんに考えていただき、声に出していただきたいと思った次第です。
ところで、同じ北区の、同じ道の先には、「西ヶ原の一里塚」という史跡があります。大正時代に道路の改修工事で撤去されることになった一里塚を、渋沢栄一ら地元民が
運動を展開し、保存することに成功した稀有な事例で、郷土の誇りといえる文化遺産です。私たちは、いままた郷土の誇りを残すことができるのか、それとも末代までの恥を残すのか。
町のシンボルが、じっと私たちを見つめています。