公開日:2005-04-24十条村役場8.村人たちのほのぼの事件簿 その2
本日も十条村へお越しいただき誠にありがとうございます。
さて、十条村の村人たちが織り成す“ほのぼの"事件をご紹介する第2回目。
今回は、江戸時代の迷子・捨て子のお話でございます。
十条銀座でも、ときどき迷子になるお子さんがいて、放送でお知らせするのですが、
江戸時代の迷子はどんな風に取り扱われていたのでしょうか?
◆ 江戸時代の十条村は純粋な「農村」でございましたから、見渡す限りの田んぼと畑、それにところどころ、藪や林があるばかりだったそうでございます。そんな寂しい村では、行き倒れや迷子・捨て子がしばしば見られました。前回ご紹介した『東叡山領取計』という幕末の記録には、なぜか上十条村ばかりに迷子・捨て子の報告が多く出てまいります。
○ 文化元年(1804)9月、上十条村の百姓・佐兵衛の畑で女の子の捨て子が見つかり、村内の娘が養育することになる。
○ 文政11年(1828)3月、上十条村・字割子沢(現在の十条仲原3・4丁目と中十条4丁目あたり)で3~4才くらいの迷子の男の子が見つかり、母親が名乗り出て解決する。
○ 天保9年(1838)6月、上十条村の百姓・甚八の屋敷近くに4~5歳くらいの女の子が迷い込み、谷中町に住む町人の娘と判明して解決する。
○ 天保14年(1843)1月、上十条村・字道女喜(現在の東十条5・6丁目あたり)で捨て子発見。3月に貰い人があり、引き取られる。
←(現代語訳)
9月御係・松平右京亮殿武州豊島郡上十条村の百姓・佐兵衛所有の字・割子沢にある畑際で女子の捨て子がみつかり、(村役人が)現場立会いを願い出たので、(代官が)家来を村に派遣し調査した上、 同じ上十条村の百姓・平次郎の娘「いわ」が「乳沢山」(乳がたくさん出る)だというので、(この捨て子を)養育をさせることにして、その旨(寺社奉行へ)ご報告申し上げました。
(国会図書館所蔵『東叡山領取計』より)
◆ 上記は、文化元(1804)年9月の捨て子の例でございますが、原文にある百姓・佐兵衛さんの屋敷は環七の「馬坂」交差点近くにありました。たぶん捨て子が見つかった畑もそのあたりにあったのでしょう。そして捨て子の養育をすることになった娘・イワさんも「馬坂」近くに住んでいたと推測されます。
それにしても「乳が沢山出るから、おイワさんに養育させる」というのが何とも「ほのぼの」ですね。きっと彼女は胸の豊かな娘さんだったにちがいありません。
今日は江戸のむかしの迷子・捨て子についてお話いたしました。
「乳沢山」の「おイワ」さんに育てられた女の子は、その後どうなったのでしょうか?
きっとスクスク成長して「おイワ」さんみたいにグラマーな女性になったことでしょう。
ひょっとすると、この町のどこかに、彼女の血を引く方が暮らしていらっしゃる
かもしれませんよ。そして今もなお、赤ちゃんに豊かなお乳を飲ませているのかも…。
さて、次回はどんなお話をいたしましょうか。
またのお越しをお待ちしております。